研究実績・成果
研究実績・成果
研究成果の公表 先端医科学講座 上田 潤 准教授
このたび、基礎生物学研究所の川口隆之助教、中山潤一教授、旭川医科大学の上田潤准教授らのグループは、マウスのゲノムを改変し、H3t に「タグ」と呼ばれる小さなしるしを付けた新規のバイオリソースを開発しました。
精巣だけで発現するヒストン異型種の機能解析を可能にする
新規のバイオリソースを開発!
ヒトを含む多くの動物は、精子や卵子などの「配偶子(はいぐうし)」を作る過程で「減数分裂(げんすうぶんれつ)」という特別な細胞分裂を行います。これにより、子どもに受け継がれる遺伝情報に多様性が生まれます。
精子が作られる精巣では、DNAを巻きつけている「ヒストン」というタンパク質が大きく入れ替わることで、染色体どうしの組み替えが可能になります。ヒストンは、遺伝子の働きや染色体の立体的な構造にも深く関わっており、様々な化学修飾(化学的な“しるし”)を受けています。
私たちはこれまでに、精巣でしか作られない特別なヒストン「H3t(エイチスリー・ティー)」(tはtestis=精巣の意味)が、精子形成に不可欠であることを報告してきました(Ueda et al., Cell Rep, 2017)。しかし、このH3tは通常のヒストンH3と非常によく似ており、わずかなアミノ酸の違いしかないため、詳細な研究が難しいという課題がありました(Cheng et al., eLife, 2020)。
今回、基礎生物学研究所の川口隆之助教、中山潤一教授、旭川医科大学の上田潤准教授らの研究グループは、マウスの遺伝子を改変し、H3tに「タグ(目印)」を付けた新しい研究材料(バイオリソース)を開発しました。このマウスを用いることで、H3tが受けている化学修飾の種類を質量分析※1という方法で調べることが可能となり、これまで難しかったH3tの特徴を明らかにすることに成功しました。
その結果、H3tには通常のヒストンH3とは異なる、特徴的な化学修飾があることがわかりました。今後、この新たなバイオリソースを活用することで、H3tがどのように精子形成に関わっているのか、より深く理解が進むことが期待されます。
本研究成果は、2024年9月12日に英国の学術誌「Scientific Reports」に掲載されました。
研究の背景
私たちヒトを含むすべての真核生物のゲノムDNA(ヒトの場合、長さは約1.8 メートル)は、ヒストンと呼ばれるタンパク質に巻かれるように存在し、直径10 マイクロメートルほどの微小な細胞核内空間に非常にコンパクトに収納されています。ヒストンタンパク質はH3、H4、H2A、H2B の4 種類のコアヒストンが8 量体を形成し、その周りをDNA が約2 回転することでヌクレオソームと呼ばれる構造を形成しています。ヌクレオソームは、すべての真核生物に共通するクロマチンの基本的構成単位で、エピジェネティクス※2 にも深く関わっています。近年、ヒストンタンパク質に異型種(バリアント)が存在し、各々が独自の機能や組織特異性を持っていることが明らかとなってきました。
精巣にのみ発現するヒトのH3T 遺伝子は1996 年に発見されており、2010 年に東京大学の胡桃坂仁志教授のグループによって立体構造と生化学的性質が解明されました(Tachiwana 他, Proc Natl Acad Sci U S A, 2010)。しかし、H3T 遺伝子の生体内での機能は長らく不明のままでした。その理由は、ゲノムプロジェクトが2002 年に完了していたにも関わらず、ヒトのH3T に相当する遺伝子がマウスで見付かっていなかったからです。このような中、2015 年に九州大学の大川恭行教授のグループによって新規のヒストン遺伝子のバリアントが多数発見され、偽遺伝子※3 だと考えられていたものの一つがH3t 遺伝子であることが明らかとなりました(Maehara, Harada, et al., Epigenetics & Chromatin, 2015)。
その後、上田准教授(当時・中部大学・助教)らは、偽遺伝子だと思われていたH3t 遺伝子がタンパク質をコードし、精子幹細胞が分化するとH3t タンパク質が発現し、精子を作るのに必要不可欠であることを明らかにしました。
ところが、驚いたことに、成熟した精子からはH3t タンパク質が消えていました。このことから、H3t 遺伝子は精子を作るためだけに特化した(精子作りが完了するとなくなる)ヒストンタンパク質をコードしていると考えられました(図1)(Ueda et al., Cell Rep, 2017)。
次に、精子形成過程でのH3t タンパク質の機能を調べるために、カナダのトロント大学のJinrong Min 教授らと国際共同研究を行い、H3t タンパク質だけに存在する1 アミノ酸の違いを認識して結合するタンパク質を明らかにしました(Cheng et al., eLife, 2020)。しかし、抗H3t 抗体以外、1 アミノ酸の違いを区別する実験手法がなかったため、生体内においてH3t タンパク質の詳細な機能を明らかにするまでには至りませんでした。
今回我々は、マウスのゲノムを改変し、H3t に「タグ」と呼ばれる小さなしるしを付けた新規のバイオリソースを開発しました。このバイオリソースを用いることによって、これまで解析が困難であった、H3t に対する化学修飾の違いを質量分析法によって解析することが可能になり、実際にH3t が他のH3 タンパク質に比べて、特徴的な化学修飾を受けていること明らかにしました。
研究成果が社会に与える影響・研究成果の意義
現在わが国では、男性不妊症が大きな問題となりつつありますが、その多くが未だ原因不明です。国立社会保障・人口問題研究所が2023 年8 月末に発表したデータによると、2021 年現在、日本においては、実に4.4 組に1 組が不妊治療を受けています。その半分は男性側が原因であり、多くは無精子症を含む乏精子症のケースです。本研究を発展させることで、H3t タンパク質の精子形成過程での機能を明らかにし、その知見を利用した男性不妊症の診断ツールの開発や男性不妊症の原因解明に繋がることが期待されます。
さらに、ヒストンタンパク質は様々な翻訳後修飾(化学修飾)を受けて、エピジェネティクス※2 に深く関わることが知られています。ヒストンタンパク質にも多様性があり、ある特定の細胞種(今回の場合は精子)への分化に必須の役割を果たしているヒストンタンパク質が特定の翻訳後修飾を受けているという事実は、エピジェネティクスの階層性を理解する上で学術的にも重要な概念になっています。
用語解説
※1 質量分析法
分子をイオン化し、その質量電荷比を測定することによってイオンや分子の質量を測定する分析法で、試料中の成分を特定できる分析技術です。
※2 エピジェネティクス
我々の体を構成する細胞は同じ遺伝情報(ゲノムDNA)を持っているにも関わらず、機能の全く異なる200 種類以上の細胞に分化することが知られています。
このように、遺伝情報の変化を伴わないで細胞の個性が生み出される仕組みを研究する研究分野はエピジェネティクスと呼ばれています。
※3 偽遺伝子(ぎいでんし)
かつては遺伝子産物(特にタンパク質)をコードしていたと考えられますが、現在はその機能を失っているもののことを指し、「遺伝子の残骸」や「遺伝子の化石」とも呼ばれています。
論文情報
【論文タイトル】
Comprehensive posttranslational modifications in the testis-specific histone
variant H3t protein validated in tagged knock-in mice
【著者】
Takayuki Kawaguchi1, 2, Michihiro Hashimoto3, Reiko Nakagawa4, Ryunosuke Minami3, Masahito
Ikawa5, 6, Jun-ichi Nakayama1, 2*, Jun Ueda3*
【著者所属】
1 大学共同利用機関法人・自然科学研究機構・基礎生物学研究所
2 国立大学法人・総合研究大学院大学
3 国立大学法人・旭川医科大学
4 国立研究開発法人・理化学研究所・生命機能科学研究センター
5 国立大学法人・大阪大学・微生物病研究所
6 国立大学法人・東京大学・医科学研究所
* 責任著者
論文は下記リンクからご確認ください。
https://www.nature.com/articles/s41598-024-72362-7
研究資金
本研究はMEXT/JSPS 科研費(JP16H06276 [AdAMS], JP19K06452, JP22K06063, JP18H05532, JP24H02324)、AMED 研究費 (JP22ym0126801)、基礎生物学研究所個別共同利用研究 (21NIBB229, 22NIBB330, 22NIBB325, 23NIBB319, 24NIBB333)などの支援を受け行われました。
【研究に関するお問合せ】
旭川医科大学先端医科学講座 准教授 上田 潤
TEL:0166-68-2385(先端医科学講座)