心理学研究室


学問と自立

放送大学客員教授 高橋 雅治

 反抗期は、子供が大人に成長する過程で見られる発達段階のひとつである。子供は、ある時期になると、それまでの自分が大人に言われるままに生きてきたにすぎないことに気づき、自分はどのように生きたらよいのかについて、いろいろ思い悩むようになる。たとえば、「人に優しくしなさい」という育てられ方をした子供は、この時期に、「優しいとはどういうことなのだろう」、「自分はそもそも優しくないのではないか」などと思い悩むようになるかもしれない。
 この時期の言動はいらだって見えることが多いので、周りの大人は大層心配する。しかし、反抗期は、自分の行動や態度は自分で決める、という自立の根本を身につけるために欠かすことのできない過程である。
 大人になれば解ることだが、本当につらいときには、人から押し付けられた価値観はあまり役に立たない。運良く、さほどつらいこともなく人生を送ることができれば、それはそれで幸せだ。しかし、長い人生には、人に裏切られることもあれば、仕事がうまくいかなくなることもある。そんなときに、めげず、へこたれず、くじけずに生きてゆくためには、自分の生き方について深く考え、批判し、相対化し、納得するという経験を経てたどり着いた強固な価値観が必要である。
 大人に言われるままに勉強に励んだ末に勉強に行き詰まってしまったら、「こうなったのは大人のせいだ」と考えてしまいがちだ。しかし、いろいろ考え抜いた末に自分には勉強が必要だと自覚して勉強しているなら、どんなに大きな壁にあたっても、くじけることなく打開策を探すだろう。子供がこのような心の自立を成し遂げるためには、大人から押し付けられた生き方を一旦捨て去り、自分のなりの生き方をあらためて作り直す必要がある。
 学問の道も同じである。ある問題について、授業や教科書から得た知識をただ身にまとっているだけでは、自力で考えるときに役立つ知識を身につけることはできない。与えられた知識について深く考え、批判し、相対化する過程を経て自分の中に取り入れなければ、自立的な思考の基盤となり得るしっかりとした知識を手に入れることはできないのだ。大学の存在意義のひとつは自立的な思考力を持った人材を育成することにある。放送大学の皆さんも、教えられたことをただ鵜呑みにするだけでなく、反抗期の子供のように悩みながら、自分で考える力を獲得してほしい。
 大学で発達心理学の講義をしていて少し気になることがある。それは、親子関係はずっと良好であった、と感じている若い学生が多いことだ。実際、家庭生活についてのアンケートで大半の中学生が「親との関係はうまくいっている」と答えた、という調査報告もある。子供が心理的に自立した上で再構築した良い関係であれば安心である。しかし、そうでないとすれば、いつの日か厳しい現実と出会ったときが心配である。

放送大学北海道学習センター広報紙「てんとう虫」(平成18年12月発行)より再掲 

 

 

 

教示学習と試行錯誤学習

放送大学客員教授 高橋 雅治 

 もう何年も前のことだが、心理学の実習で、実験レポートの書き方について質問されたことがあった。質問の内容は、「この問題についていろいろな仮説があるようですが、一体どの仮説を使って実験結果についての考察すればより良いのですか」というようなものであった。その学生は大変 熱心な学生だったので、おそらく、より良いレポートを書きたい一心でそのような質問をしたのであろう。だが、今になって考えると、この質問は、現代の高等教育が内包する重要な問題点を示唆しているように思う。
 熾烈な受験勉強に適応することができた学生の多くは、「それぞれの学習課題において、どのように行動すればより良い評価を得ることができるのか」という学習に長い間慣れ親しんできた。心理学では、このように他者からから正解を教えてもうらう学習を「教示学習」という。たとえば、ある機器の「赤いボタンを押す」という行動を学習する場面で、すでに正解を知っている人から、「赤いボタンを押してください」という教示を受けて操作を覚える学習がこれに相当する。
 これとは異なり、学習者自身がいろいろな行動を自発して、うまく行った行動を身につけてゆくという学習が存在する。これを「試行錯誤学習」という。前述の機器操作の場面では、誰かから正解を教えてもらうのではなく、学習者自身が装置の裏をのぞいたり、青いボタンを押したり、赤いボタンを押したりしているうちに、「赤いボタンを押す」という行動を次第に身につけてゆく学習がこれに相当する。
 これらの学習はそれぞれメリットとデメリットがある。まず、教示学習のメリットは、なんと言っても効率が良いことである。当然のことながら、正解を知っている人に直接正解を教えてもらうのだから、時間も労力もほとんどかからないのである。
 だが、教示学習は、新しい場面に適応しにくいというデメリットを持っている。一般に、教示学習で形成された行動は、その後の変動が小さいことが知られている。たとえば、教示により「赤いボタンを押す」という行動が形成されると、その後、それ以外の無駄な行動はほとんど出現しないのである。そのため、何かの理由で(たとえば装置の故障などで)正解が変わると、その後、新しい正解にたどり着くのは難しいことが多い。
 一方、試行錯誤学習のデメリットは、効率が悪いことである。実際、試行錯誤学習に頼っていては、いつまでも学習が成立しないことさえあり得る。効率が要求される現代社会において、これは大きなデメリットである。
 だが、試行錯誤学習は、場面の変化に対応しやすいというメリットを持っている。というのも、試行錯誤学習で形成された行動は変動が大きく、学習後も、正解とは関係のない行動が出現しやすいからである。前述の例で言えば、正しいボタン押し行動にたどり着いた後も、別のボタンを押したり、装置の裏側をのぞいてみたり、というような正解とは無関係の行動が出現しやすいのである。従って、知らないうちに場面が変わった場合でも、学習者は試行錯誤学習を持続しやすい。
 現代の高等教育の多くは、学生に大量の教示学習を要求してきた。最初に述べた質問も、長い間教示学習の訓練を受けてきた学生にとっては当然の疑問であったかもしれない。
 だが、学習の本当の面白さは、実は試行錯誤学習にある。日常生活であろうが、学問であろうが、我々が日々直面する課題のほとんどは、いわば正解の分かっていない課題である。そのような場面に直面したときに、教示学習に頼り、先人の知恵を可能な限り文献などで取り入れることはもちろん重要である。だが、教示学習には大抵の場合限界があり、正解のない未知の場面に適応してゆくためには、どうしても、自力で仮説を考え、自力でその妥当性を検討する能力が必要となる。高等教育の目的のひとつは、このような能力を積極的に身につけさせることである。これを体得することで、我々は、場面が次々に変化する激動の時代であっても、自分の力で世界観を構築し、自らの生き方を決定する自律的な生き方をすることが可能になる。そのような生き方は効率が悪いが、その一方で、自由で、楽しく、かつ、自力で生きている実感を我々にもたらしてくれるに違いない。

放送大学北海道学習センター広報誌「てんとう虫」(平成15年12月発行)より再掲 

 

 

 

 

大雪を眺めながら(医学科新入生を迎えて)

第1学年担当 高橋 雅治 

 今年の入学式は快晴であった。澄み切った大雪山系に見守られながら、新入生が校舎に集まった。式場は、清々しい緊張感で満ちていた。皆の心には、医療従事者として活躍したいという夢と、果たして良き医療従事者になれるのだろうか、という不安が入り混じっていたように思う。
 入学式の間、自分が大学生だった頃を思い出していた。当時の自分は行動科学を専攻し、研究の道を志していた。その頃の自分もまた、研究者として活躍したいという夢と、果たして研究者になれるのだろうか、という不安の入り交じった日々を送っていた。研究の面白さに取り付かれ、動物実験に明け暮れる充実した毎日であったが、研究や教育で生計を立てていけるのだろうかという不安に満ちた日々でもあった。
 新入生の皆さんの中には、自らの夢を一刻も早くかなえて、不安のない安定した日々を送りたいと思っている方がいるかもしれない。夢が大きければ、それだけ不安も大きくなるので、夢は早くかなえることにこしたことはない。新入生のみなさんが各自の夢をかなえることは、学年担当である自分の切なる望みでもある。
 だが、実際のところ、人生はいつまでたっても安定しない。自分の例を挙げれば、念願が叶って研究・教育の職についたときは、これで一安心と思ったものである。ところが、その立場に慣れてくるにつれて、次はああいう研究にチャレンジしたい、今度はこういう研究プロジェクトを作りたい、というような新たな夢が次々に生まれてくる。そして、それらの夢を追いかけてリスキーな道に進めば、この道ではうまく行かないのではないかという新たな不安が生まれる。人生はその繰り返しのようなところがあって、結局のところ、いつまでたっても安定しないのである。従って、夢の実現が遅れたからといって、それほど焦ることはない。
 それよりも、夢と現実との折り合いの付けかたの方が重要である。人生には山もあれば谷もあり、時には、夢や理想を棚上げしなければならないこともある。たとえば、自分の能力的な限界を思い知ることもあれば、望んだ立場に就けないこともあるだろう。場合によっては、あまりに厳しい現実が、みなさんの夢や理想自体を強制的にねじ曲げようとするかもしれない。
 そのような時には、現実との妥協も止むを得ないことかもしれない。夢や理想にとらわれて、現実との狭間で不適応を起こしてしまってはなんにもならない。実際、人間のエネルギーには限界があるので、全てのことに夢や理想を持ち続けることは不可能である。
 だが、現実との全面的な妥協のみを繰り返す人生は、一見、適応度が高いようで、実際には当人の精神衛生を悪化させ、最終的には幸福感の少ない人生で終わってしまうに違いない。反対に、自分の夢や理想を持ち続けている人は、短期的に見た場合にはたびたび不利益を被っていたとしても、精神的には幸せであることが多い。
 新入生の皆さんが、将来、厳しい現実に直面して不本意な妥協を繰り返すことになっても、それは現実に対する適応の一形態であって、仕方がないことかもしれない。だが、出来ることならば、生涯にわたって夢や理想を持ち続けられることを、ひとつでもふたつでもいいから見つけて欲しい。それを見つけることが出来たら、人生は本当に楽しい。遠い将来に、夢と現実との折り合いがうまく行かなくなったときに、この学舎で大雪を眺めながら夢と理想に心を震わせていた自分を思い出してもらえたらと思う。

旭川医科大学広報紙「かぐらおか」第113号(平成15年5月30日発行)より再掲 

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